アブノーマルが足りない

音友での出来事を書き綴ります

【】グレゴワールには大きな墓を

少しだけ。
カフカの『変身』を読んでおいて良かった、という話をしようと思う。読書感想文みたいなものかもしれない。

1900年代初期にフランツ・カフカによって執筆された『変身』は、カミュの『ペスト』と並んで代表的な不条理文学とされている(らしい)。
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新潮文庫から出てるやつがこれ。

読んだのは今年の3月の頭ごろ。きっかけは世界史で勉強して知っていたのと、自分のつけたバンド名に使っているから読んでおかないとなんかいやだな、という気持ちがあったこと。

内容は驚くほど簡単。朝起きたら男が毒虫に変身していた、というだけ。100ページほどなのですぐ読める。

面白いか、ときかれたら大半の人が面白くはない、もしくはつまらないと答えると思う。まあそれもそのはず、個人が遭遇した不条理をただただローテンポに書き連ねていくような内容だからだ。(もし好きな人いたらごめん。)

ここからは感想を少し。




この作品はおそらく、途方もない不条理に遭遇した時人はどうなってしまうのか、を描いている。
その時、まず人はその明らかな異常に狼狽する、面白いくらいに。しかしその後は、ここが一番重要だと思う、人はその状況に慣れていく。その侵食はあっけないほどにこれまでの感覚を蝕み、凄まじい速度で異常が日常になる。
カフカは、それが人間であり、その反応は妥当であるということに気づかせてくれる。
しかし、それが妥当であり普通であり幸せになるために人が持つ性質ではあるのだけれど、本当にそれでいいのか、という問いもあるように感じた。
毒虫になった主人公は、毒虫として死に、毒虫として処理される。毒虫になる前の日常は家族の誰の中にも残っていないまま終わる。家族は気分転換に散策に出かけ、近況報告をしあい将来に期待を膨らませる。
そんな悲しいことがあっていいのだろうか。家族が1人死んだという事実がそこにあるはずなのに。


不条理に慣れること、異常が日常になっていくこと。それは妥当ではあるのだけれど、とても怖くて悲しいことなんだと思う。忘れることで幸せになり、諦めることで前に進む、しかしそれは同時に大切なものを大切ではなくしてしまうことになる。忘れた方が苦しくないけど、忘れないで向き合って、ちゃんと苦しむこと。そのほうが多分大事なものを大事にし続けられるんじゃないか、と思う。失くしたことを無くしてはいけないのだ。

3月にこの本を読んで良かった。本当に。


少し社会科っぽい記事になった。
それでは。